紅葉を傾いて候ふ 知らざぁ言って聞かせやしょう!十三夜は栗名月
十三夜とは
秋の名月を鑑賞するお月見。十五夜が最も有名ですが、旧暦九月十三日の十三夜もまた美しい月であると重んじていました。栗や大豆(枝豆)をお供えすることから「栗名月」「豆名月」とも呼ばれています。
■2017年11月の月齢:新月の時を零として計算した日数。満月はほぼ月齢十五に当たります。
ライトアップイメージ図
続いて次に控えしは・・・
「さくらもみじ」は秋の季語
『さくらもみじ』とは聞き慣れない言葉ですが、秋の季語です。
江戸中期の加賀商人で芭蕉の門下だった村井屋塵生(じんせい)は『よい物の果てもさくらの紅葉かな 』と、「春に美しい花を咲かせた桜も、秋にはいちはやく紅葉するとすぐに散ってしまう」と人生での増長を戒めているそうですが、逆に武家は散り際にもうひと花咲かす散りっぷりを愛でたかもしれません。

アクセス

Facebook Twitter Instagram
■墨田公園地図
地図
■お問い合わせ
一般社団法人 浅草観光連盟
(月〜金 10:00 〜 17:00)
Tel 03-3844-1221
■お知らせ
17日からは、奥浅草のかくれたスポット「山谷堀公園」のライトアップをお楽しみください。

> イベントを見る

待乳山聖天 浮世絵ライブラリー

浮世絵に描かれた「隅田川」花鳥風月

春は花見、夏は花火、秋はお月見、冬は雪見。江戸時代の浮世絵には、四季を通じて隅田川の川辺で楽しむ人々が描かれています。
「観月祭」の会場には隅田川の花鳥風月を楽しむ人々が描かれた浮世絵の陶板が埋め込まれた特設テーブルが設置されます。
・このギャラリーの浮世絵は、浅草地元の本龍院待乳山聖天様と浅草猿若町会様のご協力を頂いております。

1.一鵬斎芳藤( 歌川芳藤)「治承四年源頼朝隅田川旗上着到勢揃之図」

歌川 芳藤(うたがわ よしふじ、文政11年〈1828年〉 - 明治20年〈1887年〉)
 江戸時代から明治時代の浮世絵師。歌川国芳の門人で一鵬斎(いっぽうさい)とも号す。
 始めは本郷春木町に住んでいたが、後に浅草小島町、明治16年から明治20年には浅草北三筋町に移り住んだ。
 横浜絵、武者絵、などを描いたが、中でも、おもちゃ絵師として有名で、明治時代には、本名「西岡藤太郎」の名で版元として、多くの「おもちゃ絵」を出版している。
治承四年源頼朝隅田川旗上着到勢揃之図(じしょうよねんみなもとのよりともすみだがわきじょうちゃくとうせいぞろいのず)
 平治元年(1159)の平治の乱で源義朝(よしとも)が平清盛(きよもり)に敗れ、世の中は平氏の時代になった。ところが、治承四年(1180)八月 義朝の子・頼朝が平氏打倒を掲げて挙兵したため、各地の武士は再び平氏・源氏のいずれかに味方するか決断に追いやられた。
 多くの武士を味方につけた頼朝は、安房国から相模国へ赴き、源氏ゆかりの地、鎌倉へ入ったのである。「治承四年源頼朝隅田川旗上着到勢揃之図」は、河越氏、畠山氏、江戸氏をはじめ武蔵武士団が源頼朝の旗上に参戦した様子である。一説では、舟を並べ大きな筏を造り渡河したという。

本龍院 待乳山聖天 所蔵

2. 歌川広重 「江戸名所 隅田川三周堤」

初代歌川 広重(初代うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
 江戸時代末期の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。
 天保二年(1831)、葛飾北斎(72才)が「富嶽三十六景」を発刊した時と同じく、広重(35才)は「東都名所」を発表し風景画家としての評価を受ける。翌三年、幕府の八朔の御馬進献の儀式図調整のため、その行列に参加して上洛、東海道を往復した際にその印象を写生、翌年シリーズとして発表する「東海道五十三次」に生かされる。
 「東海道五十三次」で人気を得た広重は、風景、名所のシリーズものを刊行する。「近江八景」「京都名所之内」「江戸近郊八景」溪斎英泉との共著「木曽海道六十九次」など次々と発表、晩年60才で制作を開始した「名所江戸百景」を完成させた安政5年、62才で永眠した。
江戸名所 隅田川三周堤(えどめいしょ すみだがわみめぐりつつみ)
 桜の季節、墨堤は花見客で賑わいます。「江戸名所 隅田川三周堤には」春爛漫、桜吹雪のなかを振り返れば、隅田川の西岸に待乳山、浅草寺五重塔、そして本堂の大屋根越しに富士山が望まれる景色が描かれている。

本龍院 待乳山聖天 所蔵

3. 歌川広重 「東都名所 隅田堤花見之図」

東都名所 隅田堤花見之図(とうとめいしょ すみだつつみはなみのず)
 「東都名所「隅田堤之図」も墨田堤の花見の風景である。
 向島の墨堤三囲神社のあたりをそぞろ歩く三味線を提げた二人連れの女太夫や花見客、対岸には待乳山の杜が見える風景が描かれている。

本龍院 待乳山聖天 所蔵

4. 歌川広重 「江戸名所 真乳山猿若町金龍山」

江戸名所 真乳山猿若町金龍山(とうとめいしょ まつちやまさるわかまちきんりゅうざん)
 永井荷風は『江戸芸術論』で広重の個々の浮世絵についても言及している。図版にたよらず文章で論じているため具体的な題名は明らかではないが、「広重は顔見世乗込(かおみせのりこみ)の雑沓、茶屋飾付(かざりつけ)の壮観を外(よそ)にして、待乳山の老樹鬱々(うつうつ) たる間より唯幾旒(いくりゅう)となき幟(のぼり)の貧しき鱗葺(こけらぶき)の屋根の上に飜(ひるがえ)るさまを以て足れりとなし」という部分は、『江戸名所 真乳山猿若町金龍山』のことを指していると考えられる。

浅草猿若町会 所蔵

5. 歌川広重 「隅田川八景 真乳山秋月」

二代目 歌川広重(にだいめ うたがわ ひろしげ、文政9年〈1826年〉 - 明治2年9月17日〈1869年10月21日〉)
 初代歌川広重の門人。初代歌川広重と同じく定火消同心の息子であった。弘化のころ初代広重に入門し、はじめ重宣(しげのぶ)と称す。美人画や花鳥画、武者絵を描き、やがて風景画も描くようになり、徐々に初代の作域に近付いた。
 安政5年(1858年)に初代が没すると、翌安政6年広重の養女お辰の婿になり、二代目広重を襲名する。
隅田川八景 真乳山秋月(すみだがわはっけい まつちやましゅうげつ)
 「隅田川八景 真乳山秋月」は二代目歌川広重が描いた隅田川八景の一枚である。
 初代広重の隅田川八景は、「渡場落雁」「吾妻橋帰帆」「真乳山晴嵐」「三囲暮雪」「木母寺秋月」「真崎夜雨」「金竜山晩鐘」「今戸夕照」の八枚で構成されているが、二代目広重は、「白鬚落雁」「吾妻橋帰帆」「関屋の里晴嵐」「橋場暮雪」「真乳山秋月」「枕はし夜雨」「長命寺晩鐘」「三囲夕照」で構成されている。

本龍院 待乳山聖天 所蔵

6. 歌川広重 「東都名所 真土山之図」

東都名所 真土山之図(とうとめいしょ まつちやまのず)
 待乳山は古くから歌に詠まれた名所(などころ)であるが、同時に、本所のあたりが未だ海面であったころには、沖より入港する船の目当てにされたという。すなわち、昔は、ある程度小高い丘であったようだ。また、江戸開府間もない元和6年(1620)、水除けのため日本堤(土手八丁)が築かれた時に、この待乳山あたりの土が使われたという言い伝えがある。
 隅田川両岸の名所のうち、広重が好んで描いた場所は、両国が第一位で、洲崎、佃島、待乳山と続く。広重の待乳山は、この小丘の上に祀られている待乳山聖天宮を直接の対象として描くのではなく、木立の間から眼下の山谷堀を、そしてその彼方なる隅田川さらに向島を望む風景と、逆に、向島から待乳山、山谷堀、そして今戸の辺りを望むものとに大別される。「東都名所 真乳山之図」は後者に属する一枚である。

本龍院 待乳山聖天 所蔵

7. 歌川広重 「江戸名所 真乳山上見晴之図」

江戸名所 真乳山上見晴之図(とうとめいしょ まつちやまみはらしのず)
 木立に包まれた小高い山 待乳山(古くは亦打山、真土山)の頂には本龍院がある(別称「待乳山聖天」(まつちやましょうでん・聖天さま)。下から幅広な階段を上がりきると、正面にくすんだ朱の本殿があり、お参りする人は、参道の売店でご利益をもたらす大根を購入し、階段を上がり、本堂にお供えする。お下がりの大根は、本堂下の小屋に置かれており、“自由にどうぞ”と、張り紙。
 「聖天さま」は、江戸庶民の熱き信仰心から崇められた。聖観音宗(本尊歓喜天〈聖天・十一面観音〉)の寺院で、「浅草寺」の子院の一つ。

本龍院 待乳山聖天 所蔵

8. 歌川広重 「名所江戸百景 真乳山山谷堀夜景」

名所江戸百景 真乳山山谷堀夜景(めいしょえどひゃっけい まつちやまさんやぼりやけい)
 木目が見える程の黒をベースにしたこの作品は、隅田川東側から待乳山(まつちやま)・山谷堀を芸者越しに臨んだ風景を写している。
 画面奥から手前の隅田川に注ぎ込む水路が山谷堀。今戸橋(現・今戸橋交差点付近)の橋脚が見え、左右には当時の著名な船宿であった竹屋と料亭の有明楼(ゆうめいろう)の窓が灯っている。背後の森は待乳山聖天である。江戸三座があった猿若町(現在の浅草6丁目辺り)に近いため、山谷堀芸妓(堀の芸者)は「櫓下」とも呼ばれた。
山谷堀
 山谷堀は、荒川の氾濫対策として、箕輪(現在の三ノ輪)から今戸までを結んだ水路である、とされているが、山谷堀が作られた正確な年代は分かっていない。山谷堀沿いに水害対策として築かれた「日本堤」は、元和6年(1621)に作られており、山谷堀は少なくともこれ以前には存在していたはずである。
 この流路には、江戸時代末期に繁栄した「猿若町(1843年頃成立)」などもあったが、中でも「吉原遊郭(1656年に山谷堀沿いに移転)」へ通うための交通手段として、山谷堀が利用されていた。 吉原へは猪牙舟(ちょきぶね)と呼ばれる小型の木舟によって向かうことが粋とされ、吉原へ通うことを「山谷通い」とも呼んだ。

本龍院 待乳山聖天 所蔵

9. 歌川広重 「東都三十六景 今戸橋真乳山」

東都三十六景 今戸橋真乳山(とうとさんじゅうろっけい いまどばしまつちやま)
 二代目歌川広重の作品。雪の待乳山・今戸橋を描いている。「真乳山山谷堀夜景」で描かれた船宿と料亭がよくわかる構図になっている。

本龍院 待乳山聖天 所蔵

10. 歌川国輝 「東京花猿若三櫓繁栄開看図」

東京花猿若三櫓繁栄開看図(とうきょうのはなさるわかさんやぐらはんえいかいかんず)
 明治初期に浅草猿若町にあった芝居町の様子を描いた作品。三櫓とは歌舞伎の芝居小屋、中村座・市村座・守田座の三座のこと。
 三座は1842年、幕府の方針により、猿若町に移転し、市中最大の興業街を形成した。坂東三津五郎、尾上菊五郎など、現在でも著名な役者の幟が画面に見える。
 絵師は応需 一曜斎国輝画(いちようさいくにてる)こと、二代目歌川国輝(うたがわ くにてる:1830~1874年)。
 本名山田氏。一曜斎などと号した。三代目歌川豊国の門人。明治初期の文明開化の風物をよく描いた。代表的な開化絵師の一人である。

浅草猿若町会 所蔵
ページのトップへ