浅草観音裏・猿若三座の遺産体験ツアー

地域資源発掘型実証プログラム(東京都事業)


広重画像

江戸時代末期には猿若三座を要して世界に類を見ない江戸の町人文化を開花させた一大歓楽街浅草観音裏。 今もなお芝居茶屋の食文化を引き継ぐ浅草花柳界と食通を唸らせる店が集まっていますが、いつの頃からか浅草は昼の街となってしまいました。 昼間とは違った浅草の魅力をご案内いたします。夜の浅草観音裏で江戸歌舞伎の真髄ともいえる風流( 浮立) を体験してみませんか?

※当事業は、東京都の「地域資源発掘型実証プログラム事業」の取組の一環で実施しています。


お大尽ナイトツアー

お大尽ナイトツアー

谷崎潤一郎の随筆「陰翳礼讃」のお座敷。浅草の料亭で菊灯に灯した百目蝋燭の明かりだけのなかで、食事と芸妓の踊りやお酌を楽しんでいただきます。

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町人ナイトツアー

町人ナイトツアー

着付けスタイリストによる現代着物の着合わせ自装講座を受け、着物を着たままで観音裏の居酒屋グルメを楽しみます。

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浅草寺

浅草寺

今から1300 年前、2 人の漁師の兄弟が、隅田川から観音像を拾い上げました。それを、地元の有力者と3 人でお堂を造って祀ったのが「浅草神社」の始まりと言われています。そして、この3 人が亡くなった時、神様として祀られました。それが、浅草神社の別名である「三社権現社」の所以です。

一方、観音像は駒形堂に安置され、川の方、東側を向いていました。やがて一人の貴族が巨大な浅草寺をつくりあげる基を築きます。940 年頃は平将門の乱が終わったあとぐらいになります。平将門をやっつけたのは平貞盛で、それをサポートしていたのが武蔵の国の国主のひとり藤原秀郷という人でした。平将門の乱を鎮圧したことが、評価され藤原秀郷は東北地方の国司になります。そして藤原秀郷の後、武蔵の国の国司になることを切望していたのが、平公雅(たいらのきんまさ)という人でした。平公雅は観音様の前を通るたびに「観音様、なんとかしてください。私がえらくなったら立派なお堂をつくります」と祈願していました。そうしたら、これが上手くいき、平公雅は武蔵の国の国司になります。そして約束どおり9m 四方の本堂をつくりますが、駒形のお堂の近くは川沿いの崖っぷちで危ないということで、今の本堂のあるところに建立しました。これが浅草寺の出発点になります。本堂ができた後、金堂や塔ができ、いまのような形に大きくなっていきます。またこのあたりには大きなお寺がなく、何度も火事で焼失し、建替えるたびに大きくなっていきました。


家康と浅草寺

家康と浅草寺

続いて1590 年(天正18 年)、秀吉の命により徳川家康が初めて江戸に入国した際、まず浅草寺を祈願所に定めました。結果、天下分け目の「関ヶ原の戦い」に勝利しましたから、浅草寺は大評判になり全国から参拝者が殺到しました。ここに観光都市としての浅草が誕生します

※祈願所と書提寺 お寺には祈願所と書提寺の2 種類があります。菩提寺というのは身内がなくなった時にお墓をつくって供養をするところです。祈願所というのはそこにはお墓はなく、仏様の力を信じてお願いごとをするところです。浅草寺を祈願所に選んだもうひとつの理由は港町として立派な港湾施設、港湾業者がそろっており、幕府を開いた時に東北勢を抑える海軍にもなり、東北勢をけん制する拠点になると考えたからです。表向きは勝利を願つての祈願所、もうひとつの面は軍事拠点として優れているという点で浅草を、徳川家にとって大事な町にしておこうと思ったわけです。

その後、2代将軍秀忠、3代将軍家光の時代になり、浅草寺との関係に変化が出てきます。家光は弟ばかりかわいがる父、秀忠に反発をし、秀忠が良いということを、大変嫌がりました。父親の愛情のうすい家光は天海僧正を慕うようになり、天海僧正の勧めで上野に寛永寺をつくり、力を入れ始めました。だんだん増上寺が菩提寺、寛永寺が祈祷所の要素がつよくなり、父への反発から家光は浅草よりも上野にあつた東照宮で家康を拝むようになり、大名たちの足も浅草から遠のいていきました。

5 代将軍綱吉の時代には徳川家と浅草寺の関係は破局を向かえてしまいます。そして、8 代将軍吉宗の時代では、また少し浅草が変化をしてきます。吉宗の改革の後、経済は苦しくなりますが、文化は発展していきます。また、徳川家と浅草のつきあいはなくなっていきますが、その後は庶民が浅草を育てていきます。

1719 年(享保4 年) には10 万人講を開き、大成功を収め、庶民の為のお寺に変化していきます。庶民向けにいろいろな建物、たとえば大黒堂、えびす堂、地蔵堂、薬師堂と、やおよろずの神が全部済むような形につくられた浅草寺に行けば、何でも願いを問いてくれる、まるで万能薬のようになって、江戸中の人が来るお寺になり、完全に徳川家のお寺から庶民のお寺に変わっていきました。ある意味では格式は増上寺、寛永寺より落ちましたが、逆にそれが好まれることになったのです。